本能

 ツバメの巣に親鳥が戻る。それまでは巣の中でおとなしくしていた雛たちが、ぽんと弾けるように一斉に顔を出し、ピリチチチ、と口を開く。雛に餌を与えると親鳥はすぐに飛び立ったが、近くで巣を見上げていたふたりが気になったのだろうか。餌も捕らずにまたすぐ舞い戻り、巣の中の雛の様子を伺っている。そうして何かを確かめ終えると再び飛び立ってゆく。
「愛情なのね」巣を見上げながら女が呟いた。男は咥えていた煙草を指先に持ちかえて答える。「愛情なんて感情、鳥にはないさ」
 女は巣から目を離し、男に顔を向けながら言う。「鳥にだって感情あるよ」女の視線に気づきながらも、男は巣を見つめている。「だからさ」と、男はそう言ってから少し間をおいて言葉を続けた。「あれはね、愛情じゃなくて本能なんだよ」
 男の横顔を見つめていた女の視線が、ふと横に逸れる。男は煙草を咥えなおす。先ほど飛び立った親鳥かどうかはわからないが、一羽が虫を咥えて巣に戻ってくる。雛鳥がピリチチチと声をあげる。「じゃあさ」女が口を開く。「もし、ね」今度はすぐに巣を飛び立ってゆく親鳥を見つめながら女は続ける。「愛情ってのが感情じゃなくて、本能だったらどうするの」
 女の少し強い口調に驚き、ふっと男は女に顔を向けた。巣を見上げた横顔のまま、女は言葉を繋いでゆく。「ツバメの親も人間も愛するように創られていて、愛することが本能だったらどうするの」女の顔が少しだけ紅潮していた。男は視線を巣へと逸らす。親鳥が戻ってきた。続いてもう一羽。雛がまたピリチチチと声を上げ、やがておとなしくなる。やはりふたりが気になるのだろうか。二羽の親鳥は今度はすぐに飛んでゆかず、巣のへりにとまったまま顔を付き合わせ、時折視線をふたりに向けている。
 男は何も言えないまま巣を見上げていたが、やがて小さく「そうだね」とだけ呟いた。女は答えずに、やはり巣を見上げ続けている。巣を見つめる女の瞳の中、ツバメたちの姿が少しだけ滲んでいる。

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